居間のテレビを消すと、玄関のほうから開錠音が聞こえた。
インターホンを鳴らすことなく家に入れる人物は非常に限られているが、皆事情を知っているからこそ音沙汰なしに玄関をまたぐ真似はしない。
足音を消しながら居間の出入口に忍び寄る。不穏な気配も、それを隠そうとする下手な足掻きも感じない。若干困惑しながらそっと玄関を伺い見て、思わず飛び出した。
「コナン君、どうしたんですか? こんな時間に」
薄汚れた服とかすり傷の残る肌。ニュースを騒がせていた事件にコナンが関わっていたのは一目瞭然だった。少しでも手助けをしてやりたかったのだが、運悪く任務が重なってしまったために情報を確認するだけしかできないでいた。
コナンはこちらの呼びかけに答えることなく、ただ立ち尽くしている。見えない場所に、声が出ないほどの深い怪我を負っているのだろうか、と嫌な想像が頭をよぎった。大きな事件に関わると無傷で済まない場合が多いからだ。
「とりあえず、上がってください」
それでも動かないコナンを少し迷って、抱き上げた。普段なら抵抗されるのに、やはり反応はない。
「っ、コナン君?」
ソファーに下ろして怪我の具合を見ようとした瞬間、服の裾を掴まれた。その両手は細かく震えている。
「傷が痛みますか?」
俯いたまま、力なく首を左右に振る。この状況ではとても嘘には見えない。
怪我でないなら、どうして彼はこんなにも弱々しい姿を晒している?
迷って、そっと抱き寄せ背中を何度も上下にさすった。話をする必要がありそうだった。
「赤井、さん」
敢えてその名前で呼ぶ意味を考えたが、答えは見えない。とりあえず変声機のスイッチを切った。
「どうした、ボウヤ」
自分の死を偽装した時やトリックを暴いて工藤邸まで押し掛けてきた降谷を退けた時、キュラソーの事件の時とは雲泥の差だった。どんな相手でも怯むことなく、正面から向かい合うのがコナンだ。
「……オレ、無力だった」
無意識か意識的かはわからない。
明らかに、工藤新一の口調だった。
「初めて、降谷さんが怖いと思った」
ニュースでは当初、毛利小五郎が会場の爆破事件の犯人として逮捕されたと言っていた。後に無実が証明されテロ事件へと移行したが、背景に公安が絡んでいるのは何となく想像できた。
日本では違法になりうる捜査も行うのが、降谷の所属する公安の特徴だ。
その過程で、「降谷零」の様々な顔を見せられたといったところか。
「あの人が本気を出したら、オレはちっぽけな存在なんだって……思い知った」
降谷は経験を重ねた大人で、コナンはまだ子どもだ。いくら頭脳が大人並みに優れていようと、その差はどうしようもない。歳と同時に積み重ねていくしかない。
コナンも充分わかっているだろう。わかっていても、改めて眼前に叩きつけられたらきっともどかしい。小学生でいなければならないのだから、なおさら。
(それだけ降谷君が本気になったということか)
彼がコナンに一目置いているのは明らかだが、同時に手強い相手だと認識しているのかもしれない。自分も時々畏怖を覚えることがあるからだ。
「それでも、君は歩みを止めないのだろう?」
小さな背中を少しだけ引き寄せて、告げる。
「たくさんの人間が、君を必要としている。平成のホームズを」
正体を見抜いていると気づかれても構わない。「赤井秀一」に心身を預けているなら「工藤新一」に応えねば、傷を癒やせない。
「もちろん、俺もだ。君がいなければ任務は達成できない。頼りにしているんだ」
頬を撫でながらそっと顎をすくい上げてみると、濁った海のような双眸が返ってきた。
眼鏡のフレームに指を添えて、引く。隠すものがない素顔の彼は簡単に触れてはいけないような、儚い雰囲気を纏っていた。
「だが、たまにはこうして休むのも探偵の立派な仕事だ。動いてばかりでは肝心な時に力が出ない」
唇の表面を舌でなぞり、緩んだ隙に差し込んでゆるりとかき回す。裾を掴んだままの手から少しずつ力が抜けてきたところで解放した。
「君は本当によくやった。毛利探偵と彼女を守り、他の者も守った。事件も解決に導いた。君がいなければ成し得なかった」
「そんな、の……当たり前だ。だってオレは」
「当たり前でも称賛されてしかるべきだ。自分で褒められないのなら、俺が何度でも言ってやる」
堪えるように唇を噛み締め、やがて震えだす。涙を見せまいと必死な姿は強くも脆くも見える。
「もう、今日はこのまま休め。俺がずっとそばにいる」
胸元に抱き込んで、一定のリズムで背中を軽く叩く。予想に反して抵抗はなく、気づけば静かな呼吸を繰り返していた。
(相当疲れきっていたようだな……)
毛利小五郎が逮捕された時、娘の蘭は精神的に不安定だったはずだ。そしていの一番に幼馴染を頼ったのだろうが、肝心の彼は表舞台に堂々と出られない。
隣にいながらどれだけもどかしく思い、ひた隠しにしながらも帆走していたのか……ある意味では彼女と同じくらい疲弊していたに違いない。
改めて、何もできなかった己に腹が立った。こうなる未来が予測できれば任務なんて放り投げてでもコナンを優先したのに。
堪えきれない苦笑をこぼしながら、満身創痍の身体をゆっくり抱き上げた。寝室まで運んでから阿笠博士に電話をする。予想通り、毛利蘭からコナンの行方を尋ねる連絡が来ていたようだ。
力なく横たわるコナンに布団をかけようとして、止める。
ベッドサイドランプのほのかな明かりに照らさられたコナンは本当に小さい。傍目からはとても、数々の難事件を解決し、たくさんの人々の命を救ってきたようには見えない。
だが、コナンという人間を知れば知るほど、隠された秘密に触れると、揺るぎない信頼感と共に恐怖が芽生えてしまう。
いつか、目の届かない場所で命を落としてしまうのではないかと。
頭を軽く振った。そうさせないために自分がいる。こうして弱音を吐露までしてくれるようになったんだ、最悪の未来は絶対に来ない。
昴の仮面を剥ぎ取って、ベッドに腰掛ける。様々な命を救い、事件を解決してきた手をそっと持ち上げた。
――だから、もっと背中を預けてほしい。
唇越しに伝わる体温は、少し冷たかった。
