呂蒙、殿?
その問いかけは心の中だけで響き、霧散した。
すでに背を向けてしまった呂蒙には当然ながら自分の視線は届かない。
その時は、陸遜。お前が孫呉を守るんだ。
あくまで今この瞬間に荊州を奪取し、関羽を討つことに固執する呂蒙に懸念を告げた後の、先の言葉。
特別、違和感はないはずだった。呂蒙は時々、自分に対して後継者としての言葉を投げる時がある。まだ正式にその時を迎えてはいないと自らに言い聞かせつつも正面から受け止めてきた。
けれど、なぜだろう。あの言葉はどうも、違う意味を含んでいるような気がしてならないのだ。
特別な理由はない、ただの直感に過ぎない。過ぎないからこそ、余計に胸中につかえて仕方がない。
そうだ。甘寧殿はどう、お考えなのでしょう。
呂蒙の親友とも噂される甘寧。彼なら何かを知っているかも知れない。
「あの……甘寧、殿」
「ああ? ってなんだ、お前か。どうした?」
「呂蒙殿の、ことなのですが」
皆まで言わずとも事情を察したらしい。はっきりしない相槌を打つと頭を軽く掻く。
「お前もなんか感じたか。俺もよ、さっきから嫌な予感がすんだよな」
「……ということは、甘寧殿も特に事情は把握されていないと?」
「ああ……。おっさんの顔色が悪いのが関係してたり、しないといいんだけどよ」
短く、息を呑む。
関羽を油断させるため、病に伏しているという偽の書簡を書いたと皆には伝えているが、本当は体調を崩していると一部の人間は知っていた。
当の本人は大げさなものではないから問題ないと孫権にも告げていたが、陸遜は気が気でなかった。
大げさでないなら、どうして顔色が戻らないのか。
そう問い詰めたかった。今すぐにでも休んでも欲しかった。大人しく医者の煎じた薬を飲んで、きちんと治して欲しかった。
けれど、たとえ孫権に進言したとしても素直に受け入れるはずはないとも見抜いていた。
「それは、きっと大丈夫でしょう。呂蒙殿が、大丈夫だと仰っているのですから」
「陸遜……」
そう。大丈夫。
呂蒙殿は絶対、無事野望を果たして、自分の前に帰ってきてくれる。
それを支えるために、自分の任務を全うしよう。
全部終わりましたら、また私にたくさんのことを教えてくださいね。
ああ、その前に体調をきちんと回復させてください。まだまだ呂蒙殿にはいてくださらないと困るのですから。
例えば甘寧殿と凌統殿の喧嘩をいさめられるのも呂蒙殿だけですし。
呂蒙殿に勉強を見て欲しいと言っていた兵士もいます。
それから、それから……。
残るは、麦城にいる関羽のみ。
呂蒙隊が向かっている模様。
伝令からその報告を受けた瞬間、陸遜の心臓が強く脈打った。
まるで、何者かにそこを握りしめられたかのような、感触。
思わず胸を押さえた陸遜に、副将が何ごとかと声をかけてくるが応える余裕がない。
このまま、ここにいてはいけない。
呂蒙殿の元へと、今すぐ行かなければいけない。
警鐘が頭の中で鳴り響く。なぜ、しかも突然そう思うのか。
明確な答えは浮かびそうになかった。ただ従えと、全身が促していた。
「……ここを、頼みます」
「えっ?」
「私は、呂蒙殿の元へ、向かいます」
「えっ、り、陸遜様っ!?」
お前が、孫呉を守るんだ。
私だけではないですよね? 呂蒙殿。当然、あなたも入っていますよね?
私はまだ学び足りない部分が山ほどあるんです。いくらあなたが立派だと太鼓判を押しても、私自身が納得していないのです。
それに――それに、ずっと内にしまってきた「これ」を、お見せしていないのです。ずっと葛藤し続けて、ようやく表に出す決意をしたところなのです。
まだ、隣に立っていて欲しい。
まだ、穏やかな優しい笑みを見せて欲しい。
まだ、まだ、まだ――!!
金属のぶつかり合う音が一瞬響き、完全に消えた。
呂蒙の背中が、広くて大きな背中が見える。深い傷は見当たらない。安堵の溜め息を漏らす。
はずだった。
「――呂蒙殿っ!!」
ちりん。
「おっと、鈴紐が切れちまったか……」
下馬して鈴を拾う。交戦中の最中でなくて幸いだったと安堵する。
「甘寧の兄貴、紐が切れたんすか?」
「あぁ。滅多なことじゃ切れねえんだけどな」
「そうっすか……変なことの前触れじゃないといいっすねぇ」
そんな迷信みたいな、と笑いかけた甘寧は唇を引き結んだ。
(まさか、おっさん……?)
呂蒙の顔色。
出撃前の、陸遜との会話。
それらが甘寧の心に重くのしかかりかけて――
無理矢理首を振って霧散させる。馬鹿馬鹿しい。第一こんなところでくたばるような男ではない。他の誰よりも甘寧かそれを実感しているではないか。
そんな甘寧の元に、最悪の報せが舞い込むまであと、少し。
