「ねえ、コナンくん」
毛利探偵事務所が留守のため、喫茶ポアロで昼を取っている時だった。
「安室さん、最近元気ないでしょ? 何か聞いてたりしない?」
こそこそと近づいてきた梓を怪訝に見返すと、思いもがけない相談をされた。
渦中の人物は、店の奥の席に座っている老夫婦と談話している。人当たりのいい彼は、客の人気者だ。
「……元気ない、って?」
内心驚きながらも、敢えて訊き返す。梓は明らかに眉尻を下げた。
「ってことはコナンくんも知らないかぁ。……安室さん、いつも仕事完璧なんだけどここ最近ミスが続いてるの。注文間違えたり、得意のサンドイッチも手順間違えて作っちゃったり。あ、食器割っちゃったこともあるのよ」
梓のことだから探りを入れてみたものの見事失敗したから自分に頼ってきた、といったところだろうか。
「……やっぱり、何か知ってる?」
つい黙りこんでしまったところを突っ込まれて、なるべく自然を努めて首を振った。
「ごめんね、梓姉ちゃん。でもさ、どうしてボクが知ってるって思ったの?」
「ほら、コナン君と安室さんって仲がいいじゃない? よく二人で話してたりするし」
「仲良し」と見られていた事実に、どう反応すればいいのかわからず誤魔化し笑いだけがこぼれる。
「それにね、安室さんコナン君がいるときはこう、嬉しそうっていうか、楽しそうっていうか」
「梓さん! すみません、手伝ってもらっていいですか?」
「あ、はーい! ごめんねコナン君、変なこと聞いちゃって」
なんて爆弾を落としていくんだ、あの人は……!
カウンターに慌てて戻る背中から慌てて目を逸らす。他の人と自分と、安室の態度は全く変わっていない。どこをどう見たらそんな感想が出てくるんだ。
懸命に思考を切り替える。今は真否不明な証言より「安室の元気がない」ことについて考えないといけない。
安室の様子がどことなくおかしいのは、何となくだが気づいていた。
普通の、彼の事情を知らないひとならわからないほどの小さな違和感。探偵を自負している人間としては失格だが、論理的に説明はできない。とにかく「いつもの安室透」じゃない。
――それだけ、疲弊しているということ? 身体だけじゃなくて、心も?
彼は、誰よりも孤独でいる。
気の休まる時間なんて少しもない。仮面を装着し続けなければ存在することを許されないようなものだ。
どんな感情も仮面で覆わなければならないのは、ただ、かなしい。
近い立場にいる自分だからこそ、ほんの少しでもわかってしまう。
安室からしたら子どもの分際でと吐き捨てられるかもしれない。それでも心配は消せない。
「コナン君」
呼ばれて、反射的に目線を持ち上げる。
「ご飯全然減ってないけど、あんまりお腹空いてないのかい?」
いつの間にか、安室が向かいに腰掛けていた。
「その顔、よっぽど難しいこと考えてたんだ? また事件?」
慌てて首を振りながらアイスコーヒーを一口飲み込む。梓の差し金なのか?
「そっか。どっか具合悪いのかなとも思って心配だったんだけど、何もないなら安心したよ」
いつもの、人を安心させる満面の笑顔がそこにある。
けれど、やっぱり違和感を拭えない。
「安室さんは大丈夫なの?」
自然と、口からこぼれ落ちてしまった。
下手な誤魔化しは、このひとには絶対通用しない。
腹を括って、訝しげな安室を改めて見つめる。
「安室さんは? ここでお仕事したり、探偵のお仕事もあったりで疲れてない?」
瞬きでもしていたら見落としてしまうほどの、刹那の間だった。
一切の表情がなくなった。暗闇の中で突然ナイフでも突きつけられたような、背筋の冷える感覚が襲う。
「別に、大丈夫だよ?」
再び、安室としての笑顔を纏う。おそらく彼は質問の裏を読み取った上で答えている。
「これくらいでへこたれているわけにはいかないからね。もっと頑張らないといけないし」
やはり一筋縄ではいかない。どう返すべきか、思わず黙り込んでしまう。
「それにね。ここでのバイトは結構気に入ってるんだよ。これでも」
そう呟く安室の口元は、わずかながらも自然と緩んでいる。
「そう、だったの?」
「うん。平和だからね」
意味をはかりかねていると、安室の視線は店内へと向けられた。
「この間は殺人未遂事件が起きちゃったけど、基本のんびりした時間が流れているだろう?」
意識したことはなかったが、改めて考えるとそうかもしれない。
「毛利先生や蘭さん、コナン君のような常連さんがいつもの調子で来てくれて、楽しそうな笑い声が響いて……そんな、何気ない日常の空気を感じていられる場所だから。僕には、ありがたいんだよ」
安室の声音は慈愛にさえ満ちている。紛れもない本心なのだとわかりやすいくらいに伝わってくる。
伝わってくるから……素直に納得できなかった。苦みさえ、喉の奥から込み上げてくる。
安室は、自分がどんな顔をしているのかわかっているんだろうか?
泣いているよと嘘を伝えたら、今の彼はきっと、下手な芝居を全力でやろうとしてしまう。
口を開きかけて、止めた。
中途半端に喋ったところで、躱されて終わってしまう気がした。純粋に彼を案じている気持ちが伝わらない。不本意な結果になってしまう。
この場所じゃ駄目だ。
安室透でもない。バーボンでもない。降谷零としての顔すら忘れられる場所でないと、駄目だ。
どこにある?
そんな安全な場所、一体どこに?
「コナン君?」
あった。でも、危険じゃないか? あそこにはあの人もいる。いや、事前に連絡を入れておけば……。
「……あのさ。ここのお仕事って、まだある?」
「え、そう、だね。今日は夕方まであるんだ。何か用事でも?」
「う、ううん! 大したことじゃないよ」
予想通りの返答に言葉を濁してしまう。あくまで勝手な都合に過ぎないし、今すぐ仕事を切り上げろなんて横暴も許されない、のに。
このタイミングを逃したらいけないと、頭の隅から訴え続ける声がある。聞き流すのもできないくらいの声量だった。
突然、安室が立ち上がった。その背が向かう先は、カウンターで作業をしている梓の元だ。
「コナン君。午後はお休みをもらったよ」
思わず梓に視線を送ると、わずかな会釈が返ってきた。
「ほ、本当に……いいの?」
「珍しく、相当困った顔をしていたからね。無視できないだろ?」
少し戸惑った色を浮かべながら、安室は優しく頭を撫でながら答えてくれた。
+ + + +
沖矢に連絡を入れると、理由を聞くことなく承諾してくれた。しばらく留守にしてくれるらしい。
さすがの気遣いに感謝しつつ、本当の自宅へと足を進める。
安室は大人しく後をついてきている。ただ成り行きに任せようとしているのか、どう判断すべきかの思考すらも面倒だと放棄してしまっているのか。
いずれにしても、自分としては好機だ。
「え、ここ……かい?」
だが、門の前に立った瞬間に明らかな躊躇を見せた。
「新一兄ちゃんの家だけど、何かまずかった?」
わざと知らない体を装うと、失敗した笑顔を返しながら前髪をくしゃりと握る。
「ずるいな、君は」
それでも怒りにまかせて帰る、という選択もすることなく、大げさにため息をついてみせた。
「わかったよ。ここまで来て帰るのもなんだしね」
玄関は靴がひとつも置かれていなかった。軽く掃除をしてくれたのかもしれない。改めて赤井に感謝しながら安室の手を引いて階段に向かう。
「あ、新一兄ちゃんの家って広いからね」
不思議そうに見つめられてとっさに言い訳すると、悪戯を思いついたような笑みが返ってきた。内心などお見通しだと言われているようで咄嗟に顔ごと逸らしてしまう。
扉を開けると、薄い光が満ちた、小奇麗に保たれた室内が映る。カーテンと窓を開けようとした瞬間、背後から伸びた両手がそれをこなしてくれた。
「ここは誰の部屋なんだい?」
「新一兄ちゃんのお部屋だよ。誰も入れちゃいけないって言われてるんだけど、今は特別」
どこか所在なさげに視線をさまよわせる安室に笑顔を向ける。
「どうして、特別? それに、君が怒られてしまうじゃないか」
「新一兄ちゃんは優しいから、ボクが理由を言ったらわかってくれるよ」
「理由?」
安室に、ベッドに座るよう促してから向かい合わせに立つ。
「ここは、誰も来ない場所だから。……ここでなら、どんなことを言っても、どんな顔をしても、知る人はいないよ」
安室を纏う空気が、明らかに変わった。
