あの時コナンを放っておけなかった気持ちは真実だったが、いい予感もしていなかった。
その予感は工藤邸の前に立った瞬間に膨れ上がり、今、爆発した。
まさかこんな事態が待ち受けていたなんて――後悔しても、もう遅い。
迷いなく真実を掴み取ってしまう少年相手に、適当にかわす手段ももはや取れないだろう。
梓に体調を気遣われた時、己の未熟さに舌打ちしたくなった。だが彼女程度ならうまく誤魔化して、それで終わらせたつもりでいた。
思わぬ伏兵だ。いや、油断していたせいだ。潜入捜査官としては手痛いミスだ。
ふいに、昔のことを思い出してしまった。そのせいで夢見の悪い日が続いて……神経が過敏になってしまっている。
心の拠りどころのポアロさえも、荒立たしい足跡を立てるだけの場所になっているのも、ぜんぶ、夢のせい。
――昔のことを忘れる気はない。ただ湧いてしまったこの苦痛をどうにかしたい。どうすればいい。自分ひとりで処分するにはどうしたら!
こんな状態になるのは初めてだった。
心のどこかに油断でも生まれたのではないかとうろたえるほど、衝撃だった。
……いや、実際生まれていたのだろう。
今までの潜入調査で、正体を導き出した協力者がいるという状況が初めてだから。
見た目はただの小学生、けれどアンバランスな内面を持つ子どもらしくない子ども。
不本意だが、あのFBIが入れ込む理由もわかる。自然と目で追ってしまうくらいに存在感があって、まぶしいと感じる人間は初めてだった。
アンバランスだからこそ気になるのだろうか。仮に大人だとしても同じ印象を抱いただろうか。
わからない、けれど一番興味を惹く存在であるのは間違いなかった。
そんな存在が近くにいることが、結果的に隙を産んでしまった。
どうしようもない内心の叫びを、聞かれてしまった。
「どんな、って……一体、何を言い出すのかと思ったら」
意味がないとわかっていても、抗う選択をした。
ベッドには腰掛けず、机のある方向を向いた。主がいないというわりには、机上は比較的きれいな状態にある。
「まるで僕がストレスでも溜めてるみたいな言い方だね」
振り返らずとも感じる。
真実だけを見抜くふたつの青が、まっすぐに向けられている。
柄にもなく、身体が震えそうになった。
「そりゃあ、ストレスは溜まるさ。味方はいない、失敗できない状況にいるんだからね。でも、覚悟していたことだよ」
背を向けていても、ありきたりな言い訳しか出てこない。負けを認めているようなものだが、膝をつくわけにもいかない。
「大体、僕がどうなっていようが君には関係ないだろう? なのにどうして、ここまで気をかけてくれるんだい?」
最大の謎だった。
コナンは事件の匂いが少しでもあれば我先にと首を突っ込んでくるが、それ以外については一歩引いた場所から見つめていることが多い。
自分の不調はまさにそうだ。
彼の興味を引くことじゃない。なのに、ここまでするのはなぜ?
「……関係ないのは、そう、だけど」
急に歯切れが悪くなった。気になって振り向くと、まっすぐこちらを捉えていたはずの顔は横に向けられ、目元がわずかに震えていた。心なしか頬が赤い。
どうやら、何かしらの核心をついたらしい。
「僕に取り入ろうとか? 悪いけど、そんなの効かないよ」
「ちがう、よ」
「じゃあ、組織を壊滅させるのに僕が使い物にならなくなると困るから?」
「そんな、安室さんを道具みたいに思ったことなんてない!」
思わずといった様子で再度視線を合わせ、叫ぶ。
ああ、やっぱり吸い込まれそうにきれいな青だ。
本当に吸い込まれたら危険だとわかっているのに、逸らすのが難しくなってしまう。
「……っあ、むろ、さん?」
気づくとコナンに近寄り、まっすぐに見下ろしていた。頬に触れると、明らかな震えが返ってくる。
「質問を変えるよ。……僕を、こんな場所に連れてきたのはどうして?」
打算なく、純粋に心配してくれたのだとわかって、心の奥が熱くなったのを感じた。自分のために必死なコナンがいじらしく、かわいく見えた。
自らヒントを与えるような行動を取ってしまったのは、きっとそのせい。
探るような視線を向けられる。敢えて言葉なしに見つめ返していると、コナンに触れたままの手に、小さな両手が添えられた。
「聞こえたから。……あなたが、どういう立場にいるかとか考えないで、ただ感情を吐き出したいんだって」
手の甲に力が込められた。伝わる熱が、さらに強まる。
――組織の探り屋としての顔も、私立探偵としての顔も、おそらく公安という本来の顔さえも、今だけ捨てろ。
予想以上の内容に、動揺を誤魔化せない。それは、骨身にまで染み付いた国への忠誠や覚悟を一時的に預けろと言われているのと同等だ。
「それは、できな」
「安室さんは敵だったよね? 悪い人の」
あの時と同じ問いを繰り返されて、一瞬気が削がれる。
「それが、なんだって言うんだ」
「敵を絶対倒すためには、たまのお休みも必要でしょ?」
コナンは、手のひらを胸の中に抱き込んだ。鼓動は、少し速い。
「子どもの僕がわかっちゃうくらい疲れてるんだよ。なのに知らないふりなんてできないよ!」
いつの間に、コナンに心配されるほどの存在になっていたんだろう。
あの憎きFBI相手ならばまだわかるが、自分はそこまで彼の信頼を得ていないと思っていたから……嬉しい。
そう、笑ってしまうくらいに、嬉しい気持ちが膨れ上がっている。噛みしめている。
空いた手のひらでコナンの髪に触れると、ばっと顔が持ち上がった。
「……どうして、君が泣きそうな顔をしているんだ」
コナンは簡単に泣くような性格じゃない。そのはずが、目の下を拭えば雫が溢れそうなほどに潤んでいる。
「安室さんの、代わりだもん」
目蓋が、蓋をするのを堪えるように小さく震えている。
「これだけ追い詰められてるんだって、わかりやすいでしょ?」
目の下を親指で拭うと、濡れた感触が走り抜けた。わかりやすくうろたえるコナンの前にしゃがみこんで、両の頬を包み込む。目線だけでも必死に逸らそうと無駄な努力を続けるさまが、素直にかわいい。
「あの、生意気なこと言って、ごめんなさい……でも、ボク本当に心配で」
乾いた地を潤すような、じんわり広がるこの感情はなんだろう。……いや、覚えはある。あるが、まさか、自分の子どもでもおかしくないぐらいの年齢の、彼に?
――ありえない。
本来の顔が、すかさず静止の声を入れてきた。理屈ではもちろんわかっている。
なのに、止まらない。大地がどんどん、本来あるべき姿を取り戻していく。
「……コナン君」
抱きしめると、小さい身体なのだと実感する。無限の力を秘めた小さい身体に、驚く。
「ありがとう。僕のことを気遣ってくれて」
ぴくりと震えた肩に、額を軽く押しつける。
「本当に、コナン君はすごいね。敵わないよ」
「そ、そんなことないよ。安室さんにはほら、いろいろお世話になってるし、お礼だよ」
口元がみっともなく緩んでいるのがわかる。顔を見られていなくて本当によかった。
「君は、僕の正体に気づいた子だしね。無駄な抵抗はやめろっていうことだったのかもしれないよ」
「……本当は、まだふざけるなって思ってるんじゃないの? 子どものくせに、って」
「全然。降参……いや、感謝してる。ほんとうに」
嘘で固められた人間だけど、今こぼしている言葉は何のベールもない。少しでもわかってほしくて、頭を撫でる手のひらに気持ちを注ぎ込む。
コナンの瞳が再度自分を捕らえた。明らかな羞恥を含んだ、まるで揺れる水面のようだ。
「だから、お言葉に甘えて、少し休ませてもらうよ」
所在なく視線を微妙に逸らす姿に小さく笑ってしまいながらも告げると、安堵した笑みが返ってきた。
「じゃあ、ボク居間にいるね。ゆっくりしていって」
「それは困るな」
言い終わると同時に、小さな身体を抱き上げた。
「え、ちょ、ちょっと!?」
暴れるコナンを無視して、一応の断りを入れてからベッドに背中を預ける。
「君も一緒にいてほしい。……いてくれないと、休めない」
声を注ぎ込むように耳元で囁くと、ぴたりと動きが止まった。心音もさっきよりずっと強く速い。
「もしかして、耳が弱いのかな?」
「ち、ちが……! 急にずるいよ安室さん!」
かわいすぎて、もっとわがままを言いたくなってしまう。今のコナンなら、なぜか許してもらえる気がした。
「本名で、呼んでほしいな。名字じゃなくて、名前のほう」
耳が真っ赤だ。そんな反応、期待をどんどん煽るだけなのに……無意識は怖くて、罪深い。
コナンに回した腕に、ぬくもりが触れた。
「……零、さん」
諦めと、少しの甘さも感じる声が脳内を柔らかく撫でていく。
「もう一度、お願いしても?」
「っ、れい、さん。……もう、勘弁して、ください」
――ああ、もうこれで、この少年から離れることはできなくなってしまったな。
誰にもとられたくないと思うものは、持たないつもりだった。
でも、もう後戻りはできない。
心からの安息を得られる場所を覚えてしまったら、忘れることなんてできるわけがないんだ。
