それからタイピングの音、時々悩ましげに溜め息をつく音、ビニール袋の擦れる音などの人声以外の音が広々とした理事長室内に響く。
黙々と仕事に励む笠原をただ黙って待っているだけもできない朝比奈は、彼の邪魔にならない程度にお菓子や飲み物、途中ラージェンドラの元へ向かい、頼んで弁当にしてもらった夕食を差し入れたりしていた。
時々控室にも足を運び、前理事長である尚央が残した資料に目を通したり、冷蔵庫にある飲み物を取りに行くという名目で「ある」準備をこそこそ進めては、朝比奈の姿がないことに気づいた笠原に呼び戻されるを繰り返したりもしていた。
そうして壁にかかった時計の長針が十一を指して数秒後に、腹の底から吐き出したような吐息が部屋を満たした。
「終わったー……!」
スマートフォンを触っていた朝比奈はぴくりと身体を震わせテーブルの上にそれを放り、机上に伸びている笠原の元へ駆け寄った。
「お疲れ様、トモ! すごい、本当に九時前に終わったな!」
何とか頭を持ち上げた笠原の口元に、弱々しくも嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「意地でも、お前とクリスマス過ごしたかったからな……あー、もう今日は頭使いモンにならねぇ……」
朝比奈の双眸が切なく細められ、眉間にわずかな皺が生まれる。ごくりと喉を鳴らしながら少しだけ身を屈めた。
「本当に、お疲れ様。……ねえトモ、もう少し顔、こっち向けて?」
聞き返そうと顔を寄せ、開いた口に朝比奈の唇が一瞬だけ触れる。それ以上のキスなど数え切れないほどに交わしてはいるが、朝比奈から仕掛けられるのはまだこの程度だった。
それでも、笠原には効果てきめんだった。珍しく目が真ん丸だ。
「大したものじゃないけど。ちょっとは疲れ、取れたか?」
「……こんなんじゃ、取れない」
呟いて、朝比奈の腕を引っ張る。何の抵抗もなしに、その身体は笠原の胸元へと収まった。
すでに朱へと染まっている頬を撫でながら唇を寄せていく。期待と緊張で震える吐息を受けて、笠原の胸中に愛おしさが敷き詰められていく。
「きつく抱きしめて、もっと濃いのしないと、取れない」
「……うん、いいよ。俺も、もっと」
最後まで聞く余裕はなかった。
噛みつくような勢いで唇を重ね、すでに半開きだった口内に舌を差し込む。朝比奈も待ち望んだ瞬間に自ら舌を伸ばして、笠原のそれと激しく絡み合わせた。
「……んっ、ふぁ……」
「は……っ、ゆう、き……」
「ト、モぉ……は、ふぅ……んぁ……」
受け止めきれない唾液が、朝比奈の口端からこぼれて透明な筋を作る。その感覚さえも快感にすり替わり、背中を抗えない痺れが走った。
笠原の指が朝比奈のネクタイをゆるりと解く。聞き慣れたその音に我を取り戻したように目を見開いて、慌てて顔を逸らした。
「ま、って、トモっ……」
「ん、なんだよ……?」
「ここじゃ、恥ずかしいし……」
「ああ、カーテン引くの忘れてた。あと寮に帰るまで待てない」
「そっ、そうじゃなくて! その、隣の部屋、行ってほしいんだよ」
時々席を外していた理由。その種明かしをしたかった。
今日はせっかくのクリスマスだから、いつも以上の甘い時間を過ごすだけでなく、それに相応しい雰囲気も味わいたかった。
「控室に?」
盛り上がってきたところを容赦なく中断された笠原の顔には明らかな不満が描かれていたが、朝比奈が一度言い出したことを簡単に取り消してくれる性格でないのも十分に理解していた。
ならば、これくらいはさせてもらわねば。
「わかったよ、しゃーねーな」
椅子から立ち上がり、しゃがむように身を屈め――。
「って、と、トモ!?」
「ほら、暴れるなって。落ちるから首にひっついてろよ」
「い、いいからお姫様抱っこやめろよ! 重たいだろ!?」
「重くない。それに、ちょっとでも離れないでいたいんだよ」
笠原の耳を羞恥で染まった息がくすぐり、理性を容赦なしに削り取っていく。無理やり中断された上にさらなる追い打ちは刑罰並にきつい。さっさと移動し、朝比奈の企みとやらを消化するに限る。
だが、そんな笠原の意気込みはあっさりと塗り替えられた。
「勇気、あれ……」
足を運んだ瞬間、目に飛び込んできたものに視線は釘付けになる。下ろして欲しいという朝比奈の願いもあっさり叶えて、釘付けになったものに駆け寄る姿を呆然と見送った。
「えへへ、綺麗だろ? 昨日、買ってきたんだ」
ソファーの前にあるテーブルの上を、前腕ほどの高さのクリスマスツリーが鎮座していた。小さいながらも頂点には金色の星が輝き、ビー玉サイズの色とりどりな飾りが、緑の葉を着飾るように散りばめられている。いわゆる一般的なツリーと大差ない出来だった。
「ほんとは電源入れたら光るやつとか買おうと思ったんだけど、さすがに値段がさ……でも定番のツリーって感じで、いいだろ?」
振り向いた朝比奈の笑顔は本当に嬉しそうで、幸せに満ちていた。このツリーを一緒に見たかったのだと、尋ねなくとも伝わってくる。
ソファーに腰掛けた笠原は、身を乗り出してツリーをじっくり眺める。改めて観察すると、飾りの色によって形状が異なっていたり、靴下やステッキなどたったのひとつしかないものも混ざっていた。
素人の手によって飾り付けられたツリーなのは明白だった。飾りが集中しがちな箇所があったり、葉も含めた色のバランスがいいかと思えばやけに傾いている飾りがあったり、焦りの結果か鋼みたいなものが飛び出ている部分もある。
それでも、笠原にとっては最高に綺麗なクリスマスツリーだった。
「綺麗だな……」
笠原を見つめる朝比奈の瞳は、プレゼントをもらった子供を眺めるような慈愛に溢れている。
「俺、こうやっててクリスマスツリー眺めるの、施設にいた時以来だよ。室内にでっかいツリー出して、サンタがプレゼントくれて。今なら職員の人がサンタの格好してくれてたんだってわかるけど、すげー嬉しかった」
隣に並びながら、朝比奈は軽く天井を仰ぐ。
「俺はツリーはなかったけど、母さんがでっかいホールケーキ買ってきてくれてたな。ご飯も無駄に豪華でさ。プレゼントはいつの間にかなくなってたよ」
「お前はプレゼントより食い物与えておけばオッケーみたいなトコあるもんな〜」
「べっ、別にそんなことないよ。プレゼントだって嬉しいよ!」
そして笑い合う。子供の頃にも似た空気が、二人の間に流れていた。
そっと、笠原が朝比奈の両手を宝物のように包み込む。訝しげな顔をまっすぐに見つめた。
「本当にありがとうな、勇気。こんなサプライズしてくれて。……本当は俺も何か用意したかったんだけど、なにもなくてごめん」
泣きそうに瞳を揺らす笠原に、朝比奈は思いきり首を振る。
「トモに喜んでもらえたなら十分だよ。それに今年だけじゃなくて、来年も、再来年も、ずっとクリスマスは来るんだ。その年ごとに、俺ららしいクリスマスを過ごせばいいじゃないか」
街に出て、溢れる恋人のように大きなクリスマスツリーを眺めるのもいい。
あるいは、クリスマスの時にしか食べられない料理を堪能するのもいい。
ちょっとだけ豪華なホテルに泊まって、朝まで二人だけの時間を過ごすのもいい。
たくさんの過ごし方がある。もし一日中が叶わなくても、こうした形でちょっとしたクリスマス気分を味わうのも悪くない。
プレゼントだって、必ず用意しないといけない決まりはない。決まった形なんてないのだ。
「やっぱり、お前には敵わないな……」
顔を綻ばせて、朝比奈を腕の中に閉じ込める。朝比奈も嬉々として笠原の背中に腕を巻きつけ、首筋に鼻をすり寄せた。
「来年は絶対、でっかいクリスマスツリーが見たい。仕事があったとしても、なんとしても前日までに終わらせる」
「榊先生に手伝ってもらえば確実だね?」
「ふふ、そうだな。その頃にはもう副理事長に復帰してもらってる予定だし、遠慮なくな」
「なら、サボりグセも少なくしとかないとだぞ?」
「十二月中は真面目な生徒になっとくか」
互いの額を触れ合わせ、くすくすと笑い声を落とす。
声が収まった頃を見計らって笠原が腰を引き寄せ軽く口付けると、朝比奈の翡翠が蕩けるような輝きに変わった。
「勇気……好きだ。愛してる」
「……俺も、トモが大好き。誰よりも、何よりも、好き……」
二つの影がソファーの上で重なり、やがて甘い吐息と肌の擦れ合う音が部屋を満たしていく様子を、テーブルに置かれたツリーだけがじっと見つめていた。
