春の雨の下で

 春が、やってきた。
 ずっと待ち望んでいた時が、やってきた。
 

「呂蒙殿。こちらにいらしたのですね」
 孫権の計らいで、桃色の花が咲き乱れる地に陸遜達はやってきていた。雲一つない空を、木々から離れた花の雫が飾る様はとても美しい。それは同時に物悲しさももたらすものだったが、美しさを求める心は止められそうにない。いつまでも眺めていたいと思ってしまう。
 孫権を中心に大いに盛り上がる輪をそっと抜け出し、陸遜は目当ての人物を探して視線を彷徨わせた。
 果たして、その者はいた。
 少し離れたところで、花々を肴に酒を楽しんでいるようだった。
「陸遜か。いや、花が美しくてな。ゆっくり見たかったんだ」
「確かに素晴らしいですからね。練師殿がこのような場所をお知りだとは驚きました」
 言いながら隣に腰を下ろす。確かに呂蒙の言う通り、ここはまた一段と桃色の雨も、木々で彩ったままのそれも綺麗だ。ぼうっと見入っていると、まるで別世界に舞い込んだかのような心境になる。
「……こんな風に、心穏やかに春を楽しめる日が来るとは、な。感慨深い」
「呂蒙殿……」
 陸遜の胸を、懐かしい、けれど二度と味わいたくない痛みが襲う。

 荊州を無事に奪還した日、自らに無理を強いてきた呂蒙は病に倒れた。病状は重く、一部では討ち取った関羽の呪いなのではないかという噂までもが流れた。
 ただ絶望だけが流れる日々の中でも、陸遜は「諦め」の選択肢を固く固く封印した。
 何としても、治してみせる。絶対に死なせはしない。
 陸遜や甘寧達だけではなく、孫権までもが治療に尽力した。そうして三つほど年を跨いだ頃だろうか。
 呂蒙は、医師に言わせれば奇跡的にも回復を遂げたのだ。
 呂蒙に深い信頼を置いている孫権は、まるで自分の親族であるかのように喜んだ。甘寧や凌統も同じ。
 そして、自分も。
 呂蒙がいない日々など考えられなかった。考えたくもなかった。呪文のように繰り返し言い聞かせながら尽力した結果が実を結んだのだと思うと、みっともなく泣いてしまいそうになった。
 だから代わりに、思いきり抱きついた。
 今まで注げなかった愛情を込めて、口づけを送った。
 何も言わず、すべて受け止めてくれた呂蒙にまた、涙が溢れそうになった。

「……ですが呂蒙殿。いくら回復されたからと言っても酒はお控えになってくださいね?」
「わ、わかっておるよ」
「もう、あんな思いをするのはご免です。殿や他の方々も、もちろん、私も」
「陸遜……」
 暗い感情を押し殺すためにわざと話題を逸らそうとしたのに、見事失敗してしまった。
 つい俯いてしまった陸遜の頭に軽い衝撃が加わる。驚いて顔を上げると、柔らかく微笑む呂蒙と視線が交わった。
「心配するな。俺はもう、大丈夫だ」
「……それは、わかっております」
「ならそんな顔をするな。俺は皆からたくさんの力をもらった。その恩に報いるまではおちおち死ねんよ。それに」
 一度軽く咳払いをする。少し視線を逸らしながら続けた。
「お前を置いて、逝けるわけがなかろう? まっ、まだまだ陸遜には学んでもらわんことも多いからな」
 一瞬呆然としてしまったが、すぐに嬉しさで口元が緩む。頭に置かれたままだった骨ばった大きな手を両手で包んだ。
「そうですね。私はまだまだ若輩者です。いくら呂蒙殿に太鼓判をいただいていても、それに相応しい人間だとは全く思っておりませんから」
「う、うむ」
 素直に同意できるはずもないが、話題を出したのは紛れもない自分だからとりあえずでも相槌は打たないといけないーー大体はこんな心境であろうか。耐えきれずに小さく吹き出してしまう。
「笑うことはないだろう……」
「っも、申し訳ありません呂蒙殿、っふふっ」
 けれど、口にした言葉は決して謙遜ではない。本当にまだ、学びたいことはたくさんあるのだ。
「ーー呂蒙殿」
 ようやくおかしさが収まり、名を呟く。あさっての方向に視線を泳がせていた呂蒙の服を軽く引っ張った。言葉を紡ごうとした彼の唇は自分のそれへと吸収される。
「……っ! おま、いきなり!」
「私はまだまだ足りませんよ? ……もしかして、嫌ですか?」
「い、や! そういうわけではないが、時と場所をだな」
「ならばよかったです、安心いたしました。時と場所なら問題ありません、皆さんはあちらで楽しんでいらっしゃいます。私達にはどなたも気づいていませんよ」
 嘘はついていない。事実、向こうでは孫権と甘寧が肩を組んで何やら歌っている。それをほとんどの連中が便乗して盛り上げている中、凌統は呆れた顔で眺め、練師は苦笑しながらもどこか楽しそうに見つめている。
「そ、そうだがな……うわっ」
「私、本当に呂蒙殿とこうして触れ合いたくて仕方がなかったのです。呂蒙殿を本当にお慕い申し上げているから……」
 瞳を閉じてぬくもりと匂いを堪能する。まだまだ足りない。過去に蓄積された負の感情を塗り替えるまでには、まだ満たされてはいない。
 やがて、背中に熱と力が加わった。思わず嬉しい悲鳴をあげそうになる。
「……照れているばかりでは、駄目だな。陸遜、それは俺も同じだ。だから……」
「だから、病が完治したら共に暮らそうと仰っていただけたのですよね? 私まだ、昨日のことのように覚えています。とても、嬉しかったです」
 いつものように、仕事の合間を縫って呂蒙の世話をしていた時に場に降りた言葉。
 唐突だった。
 最初は遺言のようなものかと、ならば肯定したくはないと疑っていたけれど、本当に実現させたいのだとわかり、涙を流してしまったほど喜びと幸せで埋め尽くされたのを覚えている。
 改めて言葉にされて緊張が増してしまったのか、変な力加減が伝わってくる。
「……本当に、嫌ではないのか? 俺のような男となど、噂にでもなったらお前の顔に泥を塗るようなものだぞ?」
「呂蒙殿」
 戒めを解き、戸惑いがちな瞳の呂蒙を正面から見つめる。
「あの時にはい、とお返事させていただいたのは紛れもない本心なんです。呂蒙殿とずっと共にいたいと願っているから、です」
 だから、呂蒙殿のご心配は単なる杞憂ですよ?
 微笑みながらの言葉に少し不安が取れたようだった。
「それに、何か言われたとしても見返してやればいいだけの話です。私には呂蒙殿はもちろん、とても心強い仲間がいますから」
 これは呂蒙の心を強く打ったようだ。一気に破顔すると頭を軽く撫でた。
「そうか。本当に俺の杞憂だったようだな」
「はい。ですから早く、共に暮らしましょう? 呂蒙殿」
 本日何度目かの硬直を襲った呂蒙に、また何度目かの口づけを送る。
 これ以上ない幸福に包まれた陸遜の瞳に映る雨は、とても暖かく感じるのだった。

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