陽虎学園教師、呂蒙の朝は早い。
まず、必ず五時半には起きる。前日飲み会があっても頑張って起きる。低血圧気味な彼はそれくらいに起きて、しばしぼーっとする時間が必要なのだ。
頭が大体活動できそうな状態になったら湯を沸かしながら顔を洗う。そして簡単な朝食と共に熱い茶を流し込む頃には頭は完全な復活を遂げている。
あとは七時過ぎに学校に着くよう素早く準備を終えるだけ。通常運転に戻った呂蒙ならたやすいこと。そう、何のミスも犯すことなくアパートを出られる。
……ただし、「以前」ならば。
「あ、少し待っていただけますか?」
今まさに靴を履いて出ようとした瞬間背中にかけられた声に、呂蒙は何とも微妙な気持ちになりながら動きを止めた。
振り返ると、早朝にもかかわらずとても眩しい笑顔を振りまいている半同居人が立っていた。つい先程までは布団の中にいたはずなのに、いつの間にいたのか。
「……何だ? 陸遜」
いつもの赤い制服ではなく、下着に呂蒙の大きめパジャマを羽織っただけの教え子ーー陸遜は苦味を混ぜた笑みに変えて、首元に手を置いた。
「ネクタイ。またちゃんと結べてませんよ」
陸遜に倣うように首元へ手を持っていき、動きを止めた。この、妙なほどの剥き出し感と涼しい感は間違いない。
ああ、またやってしまったか。
このネクタイの癖は、何度直そうと思っても一向に直らない困った悩みだった。毎日の行動なのにうっかり忘れてしまうのが理解できなさすぎる。いや、それだけ自分の気が抜けている証なのだろうが。
とにかくさっさと締め直さねば。いい加減行かなければいつもの時間に辿り着けない。
「む、むう」
予想通り、スムーズにいかない。
元々手先が不器用な性格である。鏡を見ながらでもうまくいかない作業を完璧に実行できるはずもなかった。
今すぐ鏡の前に移動してやるべきだ。いやいや、靴をまた脱ぐのは面倒だし手間だし、もしかしたら奇跡が起きて成功するかも知れない。
(ええいもう面倒だ!)
仕方ない、このままで行くしかない!
「待ってください、呂蒙先生」
再び引き止められる。だがそれとは関係なく引っかかる内容に、苦虫を噛み潰したような気持ちで振り向く。
「……先生はやめんか」
すかさず謝罪が返ってきたが、緩んでいる口元を見る限り本心は別だろう。
「ネクタイ、私が直します。じっとしていてくださいね」
咄嗟に思いきり首を左右に振ったが本人は完全な無視を決め込み、呂蒙のネクタイーーではなく剥き出しの肌に触れた。少しひやりとする感触に、過剰な反応を返してしまう。
「全く、こんな状態のまま学校に行くなど危険すぎます。前からお伝えしていますが、狙われてもおかしくないのですよ?」
また、前提のおかしい意見を口にしている。自分を客観視すれば誰でもありえないとわかるのに、陸遜は頑として考えを曲げてくれない。
狙われる危険があるのはむしろ陸遜の方な気がする。女子の間で「可愛くて優しく、とにかく温和だ」という評価を受けているようだから、一応注意した方がいいのではないだろうか。
一応、というのは……彼はご覧のありさま、だからだ。
そして自分も、正直そこまで心配してはいなかったりする。
「納得されていない、ようですね?」
わずかな笑みを浮かべて、陸遜が見上げてくる。
「当たり前だ。前から言ってるが、俺が狙われるなどありえん。凌統や周瑜ならわかるがな」
これも噂でだが、ファンクラブがあるというのを聞いたことがある。ただ周瑜には同じクラスの小喬という恋人があたるため、水面下での活動となっているらしい。
「私がもし呂蒙殿に片思い中なら、間違いなく狙いそうになりますよ。それくらい危険なんです」
末恐ろしいことをさらっと告げてくれる。思わず息を飲むとそれがなぜか嬉しかったらしく、唇をさらに持ち上げて距離を詰めてくる。
「っ!? り、陸遜!?」
軽いリップ音と、刺激。それらを首元から感じ、慌てて陸遜を引き剥がした。
「おまっ、まさか!」
「はい。キスマークをつけさせていただきました」
「なっ、なっなっ!」
何てことをしてくれたんだ!
その悲鳴は喉の奥で虚しく響く。
「大丈夫です。ネクタイをきちんと結べば隠れますから。あ、でもこれで結び忘れはなくなるのではありませんか?」
にっこり。何とも満足そうな笑顔だ。
「……そう、だな」
情けない。ここまで見事に振り回されて、男としても大人としても本当に情けない。
こちらの様子を悟ったのか、慌てて軽く頭を下げてくる。
「すみません、悪ふざけが過ぎました。今度こそネクタイ直しますね」
目的の時間に到着できる可能性はとうになくなっていたのだが、やはり呂蒙は強気に出れなかった。眉尻を下げながらも、嬉しさを隠せていない様子でネクタイを整えている陸遜を眺めているうちに、愛しさが込み上がってきてしまったのだ。
何だかんだで陸遜に勝てないのは、ひとえに己の甘さが一因だろう。男同士だとか、教師と生徒の関係だとか、年齢差だとか。問題点は多々あるのに、陸遜をひとりの人間として大切に想っている時点でどうにもできない。
どんな時も一途に自分を慕い、素直に感情を、想いを与えてくれる。
背伸びをしたい年頃だからか、先程のように自分を振り回しながらも、うっかり年齢に相応しい言動をして、どこか悔しそうに顔を歪めている時は正直、可愛いと思う。
ときどき「男」の顔をして愛しているなどと呟く時は、何を生意気なことをと思いながらも心臓の高鳴りをごまかせない。
ああ、つまりもう、後戻りのできない位置に立ってしまっているということ。
時折陸遜の泊まりを許可してしまっている時点で言い訳も効果なし。
どんな時も仕事を最優先にしてきた以前の自分からは考えられない。
「……はい、終わりましたよ呂蒙ど、の?」
半ば無意識に、身体が動いていた。
まだ細い顎を持ち上げ、上半身を傾けていく。
疑問の声を飲み込むように、唇を重ねた。間を置かずに舌を滑り込ませる。
熱に後押しされるままに、けれど時間帯を考えて、ほどほどに。そんな風に考えながらの口付けは、微妙な刺激を生み出していたらしい。
こちらの袖を強く握る陸遜の手に気づいて解放すると、頬を真っ赤にして軽く睨まれてしまった。
「……朝から、こんな、いつもと違う……」
「……ネクタイの、礼だ。では、行ってくる。お前も遅刻せんようにな」
逃げるように玄関を飛び出す。
「ずるいです」と声をかけられたような気がしたが、確かに否定できないと心の中で謝るしかできない呂蒙だった。
