目の前に、闇が広がっていた。
正確には闇だけではなかった。視線を足元にずらせば、切り立った崖にいることがわかった。
見知った二人が、今にも闇に飲まれそうになっていることも。
二人は自分の名前を絞り出しながら、青、あるいは緑の双眸を向けてくる。らしくない姿だ。
助けるのはもちろん二人。両手を伸ばそうとして、異変に気づく。
腕が一本しかない。
焦りながらも、博士作の道具を確認したが、ない。
ありえない。ない。どうして。
――コナン君、いや、新一君。君のことを僕は心から必要としているんだ。一緒に僕の日本を守ってほしい。そして、君自身も守らせてくれ。
――ボウヤは俺の命の恩人だ。だから今度は俺のすべてを賭けて、お前の道を阻むものから守ろう。俺以外に、お前の隣は務まらんだろう?
交互に名前を呼ばれて、ますます焦燥が募っていく。
二人ともかけがえのないひと達だ。でもそれは愛情というよりかは友愛に近いもので。
ねえ、どっちを選ぶの?
どっちかしか、選べないんだよ?
ほら、早くしないと二人とも助からなくなっちゃうよ?
どこからかそんな声が聞こえてきた。そんな、どちらかなんて選べるわけない。二人とも助けたいんだ。
そう。じゃあ……助けられないね。
意味を飲み込めず、訊き返そうとした時だった。
視界から、二本の手が消えた。
* * * *
「コナン君、なんか具合悪そう……大丈夫?」
ぼんやりと帰り支度をしていると、歩美から気遣うように声をかけられた。
しまった、顔に出ていたか。
「大丈夫だよ。昨日、遅くまで本読んでて寝不足なだけ」
「なら、いいんだけど……」
どこか納得のいかない顔をしている。さすが女の子は鋭い。
「昴さんに、安室さん」
つきかけた溜め息が、喉の奥に消えた。
灰原が若干呆れた視線を投げてくる。
「最近、よく一緒にいるそうね」
「……オメー、わかってて言ってるだろ」
「時々、あなたの家から楽しそうな声が聞こえてくるんだもの。仕方ないじゃない?」
皮肉たっぷりな物言いは、さっさとなんとかしろというメッセージが込められていた。
そりゃあ、なんとかできるならとっくにそうしてるさ。できないから悩んでいるわけで。
逃げたい気持ちを吐き出せない苦しさを抱えながら喫茶ポアロの前を通りがかると、軽快な鈴の音が響いた。
……まさか。
「お帰り、コナン君」
「た、ただいま、安室さん」
多分笑顔は失敗していると思う。頬が若干ひくついていた。
安室は店内に戻ることもせず、ただニコニコとこちらを見下ろしている。黙って逃しはしないという圧を感じるし、こちらの用事に付き合ってほしいという要求も見え隠れしている。
ひとまず、彼の策略に乗るか……。
「えっと、ボクに用事?」
「うん。よかったらポアロにおやつ食べに来ないかい? 新作のデザートの試食をぜひして欲しいんだ」
デザート……確かに安室の料理はどれも美味揃いだが、甘いものが特別好きというわけではない。
「その新作ってね、実はレモンパイなんだ。コナン君、確か好きだったよね?」
思いきり、しかも期待を込めた声で訊き返してしまっては、もはや言い訳もできまい。
「で、でもいいの? まだお客さんいるんじゃないの?」
「今はいないし、マスターにも許可をもらっているから大丈夫だよ」
安室の手のひらの上でうまく転がされただけのような気もするが、大好物を目の前でぶら下げられてはどうしようもない。
――まあ、梓もいるし、下手なことはしてこないだろう。それに、食べ物に罪はない。
「ところでコナン君。僕への気持ち、少しは変わってくれたかな?」
絶品レモンパイをきれいに完食し、サービスで入れてもらったアイスコーヒーで喉を潤しているところだった。
互いを包んでいたまったりムードは、あっという間に霧散した。
「……っ! あ、梓さんがいなくなるの、待ってたでしょ!?」
咳き込みながらもなんとか突っ込み返すと、余裕綽々な笑顔が返ってきた。
「チャンスは最大限に生かさないともったいないだろ?」
まさか、梓の買い出しは安室が仕組んだものなのでは――。
気づいたところで後の祭りだ。早く帰ってきてくれと梓に念を飛ばしつつ、露骨に視線を逸らす。安室の雰囲気に飲まれたら負けだ。
「だから、この間も言ったけど」
「好きだけど恋人としては考えられないってやつ? でも、それは『今』の話でしょ?」
なんというポジティブ思考なのだろう。ある意味尊敬する。
大体、安室ももう一人の人も、小学生相手に本気で好きだの愛しているだの言える精神がわからない。そもそも本気なのかも疑わしい。……突っ込んで「証明してみせるよ」と返されてもさらに困るだけだから、敢えて見ないふりをしているが。
忘れたくても忘れられない。男、しかも(実年齢で考えても)かなり年上の人間から、二回連続で告白されてしまった。
最初は安室から。次いで逃げ込んだ自分の家で、赤井から。
普段あんなにいがみ合っているくせに、こんなところで華麗な連携プレーを見せるなと頭を抱えたくなった。
白昼夢としたかったあの日から、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。その間、彼らは暇を見つけてはあの手この手で気を引こうと躍起になっている。
「ねえ。僕はね、こんなに誰かを好きになったのは初めてなんだ」
声が、なぜか真横から聞こえてきた。
約一ヶ月の出来事をぼんやり振り返っている間に、安室が隣に腰掛けていた。
「事あるごとに僕を感心させてくるんだもの、惹かれないほうが無理だよ。もちろん最初はいろいろ、本当にいろいろ考えたけど……もう、手遅れだった」
一見冷たい印象の、海のような青。その瞳が、熱を帯びてこちらを映してくる。だめだ、引き込まれたらもっと逃げられなくなってしまう。
「あ……っ」
手を掴まれ、引き寄せられる。
「君はまだ疑っているみたいだけど、嘘じゃない。あの日伝えた気持ちも、今こうして伝えている言葉も、全部本物だよ。本当に、君が好きなんだ」
顔も、身体もあつい。言葉がでて来ない。
柔和な笑みはとうになく、余裕も見られないどころか明らかな緊張まで伝わってくる。触れている箇所も、心なしか汗ばんできている気がする。
どうしよう、本当に、この人はオレに……。
「そこまでだ、安室くん」
ふいに響いた張りのある低音が、熱を含んだ空気を一気に吹き飛ばした。
「あっ、赤井さん!?」
店の入口に堂々と立っている赤井にぎょっとする。どうして変装していないんだ、近くに黒ずくめの組織のメンバーが潜んでいたらどうするんだ!
「赤井、貴様……っ!」
背筋が震えるほどの殺気が伝わってくる。対する赤井は悠然とこちらに歩み寄ってきた。安室の存在はまるで眼中にないように見える。
「携帯に電話をかけたんだが全然出なかったんでな。迎えに来た」
「ご、ごめんなさい。気づかなくって」
……ん? 迎え?
言われた言葉を改めて噛み砕いていると、急に浮遊感が生まれた。
「待て、勝手に何を!」
赤井の子どもよろしく、抱っこされていた。恥ずかしいやら迂闊に振りほどけないやらで、両手が置き場所を探してさまよう。
安室に掴まれた腕を払い除けた赤井からは、苛立ちがにじみ出ていた。
「ボウヤは君のものではないし、俺は彼に用事がある。だから連れて行くだけだ」
安室も表情はすっかり崩れて、普段の面影はまるでなかった。
二人とも感情を悟らせないのが得意なはずなのに……もう、ただ驚くしかできない。
「そんな言い分通用するか! いいからコナン君を」
「ただいま戻りましたー!」
みたび、第三者の声が容赦なく空気を一刀両断した。
何とか入口を振り向くと、両手にビニール袋をぶら下げた梓がカウンター裏へと向かっていくところだった。
「安室さん、頼まれた物買ってきましたよ! 遅くなってごめんなさい」
「い、いえ。大丈夫ですよ。本当にありがとうございました」
赤井がこの隙を見逃すはずもない。
肝心のオレの意思はどうなんだ、と内心ぼやいても、答えてくれる優しい声は当然なかった。
