赤井に連れて来られた場所は自分の家ではなく、築年数の古そうなアパートの一室だった。他の住人はいないのだろうか、不気味なほど静かだ。
「ここは……?」
「仕事で一時借りていたセーフハウスだ。もうすぐ解約する」
人通りの少ない路地に加えて周りに住宅も少ない。都合のいい場所なのは納得できた。
わからないのは、わざわざここを選んだ理由。
偶然とは思えないタイミングでポアロに現れた理由。
「言っただろう? 君に用事があったんだ」
こちらを振り向いて、淡々と赤井は嘘を綴る。考えられるのはただ一つ。
「盗聴してたでしょ」
微かな笑い声が答えだった。
信じられない。安室も安室なら赤井も赤井だ。こんなただの子どもに本気になるなんて!
「呆れているようだな?」
全く気に咎めていない様子で身を屈めたかと思うと、壁際に追い込まれてしまった。両脇は赤井のたくましい腕がガードしているし、完璧な四面楚歌状態だった。
「相変わらず君は脇が甘い」
二つの翡翠が目の前で輝いている。きらきらというよりぎらぎらと表現するほうが相応しい。
「それとも、想いがきちんと伝わっていないのか」
さらに距離が縮まる。腕を精一杯伸ばしても、小学生の長さと力はたかが知れている。
あとほんの少しでも動いたら、触れ合ってしまう。
「や、やだ……あかいさん」
身体が硬直してしまう。唇に自分以外の吐息がかかって、そこから熱が広がっていくような感覚に陥る。
「安室くんにもここまで許していただろう? あまりに不公平だと思わないか?」
「ゆっ、許すとか関係ないっていうかそもそもおかしいじゃないか!」
お構いなしに迫ってきたのはあっちで、赤井もただ同じことを繰り返しているに過ぎない。
二人とも絶対、(一応)小学一年生相手のつもりで接してないだろ……!
「おかしい、か。確かに、その通りかもしれないな」
一旦距離を取った赤井は、苦笑にもみえる笑みを刻む。
「最初は変なガキだという認識しかなかったのに、自分でも呆れるほどのめり込んでいるんだ。他の誰にも渡したくないと思うくらいに……」
子どもでも、たとえ大人だったとしても、関係ない。
「江戸川コナン」という人間をひたすらに想っているのだと、まっすぐな瞳が告げていた。
――なんなんだよ。安室さんも赤井さんも、オレが仮の姿だって知らないくせして、そんなに本気になってどうするんだよ。どうしろって言うんだよ。オレも、どうして本気で拒否できないんだよ……!
自分自身も混乱していた。本気で嫌なら言動で示せばいいのにできていないから、二人とも諦めずにいるのだ。
「……そんな顔をさせてしまって、本当にすまない」
目元を指でそっと撫でられた。まさか泣いていた……わけはないだろうが、それに近かったのかもしれない。気分的には間違っていない。
「だが本当に好き、いや、愛しているんだ。どんな姿でも関係なく、『君』がなにより大切なんだ」
どんな、姿でも?
熱烈な告白にぼうっとするより、嫌な予感が支配していく。どうしてわざわざ、そんな言い方をするのか。まるで、事情を把握しているとでも言いたげな――
「それは僕も同じだからね」
なんというデジャヴだろう。
音だけで勢いよく開けられたとわかる玄関先に、安室が貼り付けたような笑みを浮かべて立っていた。
「GPSか? いつの間に」
「言うわけないでしょう。それよりいつまでひっついているんですか、さっさと離れてください」
指をボキボキ鳴らしながらの言葉に、とりあえず従うことにしたらしい。しぶしぶといった様子で赤井が離れていく。
ようやく息が吸えたような気分になって、改めて二人の言葉を反芻する。どう考えても、ある結論にしか到達してくれない。
「……あの、さ。一個、質問してもいい?」
目線で訊き返してきた二人をおそるおそる見上げながら、続ける。
「ボクのこと、どこまで知ってるのかなー、なんて」
二人は一瞬顔を見合わせ、同じタイミングで不敵に笑ってみせた。
「一応、公安っていう肩書があるからね」
「FBIをみくびってもらっては困る」
そうだ。ここ一ヶ月で染み付いた記憶のせいでうっかり忘れていたが、敵に回したら特に怖い二人だった。
全身の体温が急激に下がっていくようだった。特に安室に知られたのはまずい。彼は「バーボン」でもあるのだ。いくら好意的とはいえ、それとこれとは別問題だ。
「コナン君、そんな心配しなくても大丈夫だよ」
安室は目元を緩めて、撫でるように頭を軽く二、三度叩いてきた。
「大事な人を売り渡すような、非情な真似はさすがにしないさ。君に嫌われたくないしね」
今は、その言葉を信じるしかない。
「安心しろ。もし少しでも『バーボン』が怪しい動きをしたら俺がきっちり止めてみせるさ」
「あなたの出番は未来永劫訪れませんから、こちらには構わずどうぞ大学院生活を満喫なさってください」
「強行手段に出たくせしてよく言う。なあ、宅配業者さん?」
「死人がどこまでコナン君を守れるか見物ですねえ、赤井秀一?」
もはや乾いた笑いしか出てこない。どちらかを選ぶか、あるいはきっぱり振るか、二つの道しか目前には伸びていない。らしい。
どうして断絶する勢いで断れないんだろう。こんなに迷ってしまうんだろう。
だが、たっぷりと悩む時間はなさそうだった。一触即発状態になってしまった二人を落ち着かせるために、早急に手を打たねばならない。
「ね、ねえとりあえずさ、帰ろうよ。もう夜だし、蘭姉ちゃんに怒られちゃう」
二人の袖を引っ張って、呼びかけてみた。蘭に叱られるのはわりと本気で勘弁願いたいので、なにがなんでも聞き入れてもらわねば。
「……そうだね。仕方ないけどこの場は引こう。責任持って僕が送っていくよ」
言うが早いか、抱きかかえられてしまった。
「待て、勝手に」
「決めるなと? ひどい寝言ですね。自分の格好をよく確認してもらいたいものだ」
明らかにショックを受けてしまった赤井を鼻で一笑して、さっさと車に乗り込んでいく。
……後ろ髪を引かれる思いなのは、単なる同情? 気になって仕方ないのも、同情ゆえ、なのか?
「ごめん安室さん、ちょっとだけ待ってて!」
止める声を無視して車を降りる。少し離れたところに見慣れた赤のボディを見つけた。運転席を覗き込み、赤井の姿を認めると窓を一度叩く。
「どうしたんだ、忘れ物か?」
「うん。したかも」
赤井は二度瞬きをしてから運転席のドアを開けた。自ら飛び込んできている身としては拒否もしにくい。黙って乗り込んだ。
「それで? 嘘をついてまでここに来た理由はなんだ?」
すべてを見透かそうとするように見つめられる。視線の置きどころがわからず、わずかに俯くことしかできなかった。
「……わからないよ」
「ほう? 聡明なボウヤらしくない回答だな」
「ちょっと、気になっただけなんだ。赤井さんらしくない姿ばっかり見てたから、それがなんとなく、嫌かもって」
ふぐっ、とみっともない音が言葉の代わりに続いた。
唇全部があたたかい。さっきよりもずっと近くに赤井の顔がある。
疑問と結論が同時に浮かんだところで、温度が少しだけ下がった。
「今回は、これぐらいにしといてやる」
まるで獣だと思った。
いつ食われてもおかしくない。絶対に逃しはしないと、二つの翡翠が眩しく絡みつく。
自分を車から降ろして走り去るまでが、ひとつのシーンを見ているようだった。身体も心もあの輝きに囚われているような感覚がまだ、抜けない。
「コナン君。用事は終わったかい?」
振り返って、一気に現実が戻ってきた。
見下ろす安室の双眸が、どこか冷たい。
まさか見られていた? この態度、そうとしか思えない。
別に安室と付き合っているわけじゃないからどうこう言われる筋合いはない。ないが、後ずさりたくなるほど露骨だと謝ってしまいたくなる。
「……うん。赤井さんの車の中に忘れ物してたかもって思って」
「そう。ちゃんとあった?」
「なかったから、勘違いだったのかも。ごめんなさい」
冗談抜きで怖い。嘘だとわかっていて乗ってくるところが余計に怖い。
安室の腕を引いて車に戻る。後部座席に乗りたいが、さすがにそれは露骨すぎる。
車中は変な沈黙が続いていたが、途中で電話をかけてきた蘭や博士にだいぶ救われた。だいたい安室は警察官だ、仮にも小学生相手におかしな真似はしないはず。
緊張がほぐれかけてきた頃に、探偵事務所に到着した。ようやくこの時間が終わるかと思うと、ため息がつい漏れそうだ。
「送ってくれてありがとう、安室さん。おやすみなさい」
シートベルトを外して、精一杯の笑顔を向けた時だった。
身体が前方に引っ張られた。視界いっぱいに安室の顔が映り込んで、唇にはぬくもりが……。
本日二度目のキスだと気づいた瞬間に解放された。完全に離れる前に表面をひと舐めされて、一気に全身が熱くなる。
「我慢しようと思ったけど、できなかった」
わかる、と反射的に納得してしまうほど、余裕は確かに感じられない。
「奴の後、というのが気に食わないけど……でも、僕のほうが記憶に残るんじゃないかな?」
微かに口端を持ち上げた安室は、余裕のなさも相まってか大人の色気というものを惜しげもなく垂れ流していた。普段ポアロで目にするアイドル的爽やかさは微塵もない。
きっと、どんな女性も抗えずに落ちていってしまう。
「それじゃあね、コナン君。お迎えも来たよ」
満面の笑顔が、夢見心地な気分を振り払う。
歩道側を振り返ると、制服姿のままの蘭がお辞儀をしているところだった。
二人のせいで、夕飯はなにも味がしなかった。
どうやって布団に入ったかも覚えていない。目を閉じると安室どころか赤井の感触もよみがえって、心臓が苦しくなる。
なんで苦しいだけなんだ。
どうして、気持ち悪いという感情がひとつもないんだ。
――二人のあの不敵な笑みを思い出して、これ以上考えるのをやめた。いきなりマジに迫られて、きっと度肝を抜かれているだけに決まってる!
