人の気配がひとつ減ったのを感じて、重くなりかけの目蓋を持ち上げる。静かに開いた携帯のディスプレイには午前一時過ぎを示した時刻と、隠れて何度も確認したメール本文が表示されていた。
『みんなが寝た頃を見計らって、部屋を抜け出そう。温泉で待ってる』
――やっと、この時間が来た。
心音が速い。体温が無駄に上昇を始めた。
浮ついた感情を懸命に押し殺しながら、そっと布団から抜け出す。クマが抱きつき癖を発揮していなかったのは幸いだった。
エレベーターに乗っている時間がやけに長く感じる。早く、早く辿り着きたい。
「陽介。こっち」
――ああ。やっと、見つけた。
恋人は温泉の出入口にいた。思わず腕を伸ばすとしっかり抱きしめ返してくれる。待ち焦がれたぬくもりに包まれて、もう涙が出そうだ。
「悠、ゆ、う……」
「ちょ、ちょっと待て陽介。ここ廊下だから。いくらなんでもここだとまずいだろ?」
その言葉に冷静さが戻る。同時に恥ずかしさが募り、悠を放って先に入口をくぐってしまった。
おかげで露天風呂に向かうまで「ひどい」「人でなし」などなどのマイナス評価をもらいまくる羽目になる。
「そ、そんなに拗ねなくてもいいじゃねえかよ……」
背中から抱きしめておきながら無言のままの悠に、もはや呆れしか浮かばない。だがしばらくこのままでいたいという意思表示のつもりでもあるかも知れないと思うと、途端に可愛さも感じてしまう。
バカップルさながらの想いの深さにますます呆れる一方で、頭の中に浮かぶのは先ほどの、不意を突かれた悠の顔。
真意を問いたださねばならない。これはお互いにとってきっと、大事なことだ。
「ゆ……」
呼びかけた名前は、互いの口の中へと消えた。
温泉の注がれる音だけが響いていた空間に、唾液の絡み合う音が加わる。口内と湯の熱が相まって、早くも頭にもやがかかり始めた。
どうしても訊きたいことがあるのに、ここで飲まれてはいけない。気をしっかり保たねば……。
「……どうしたの? 何か、キスに集中できてないみたい」
自ら距離を取ると、不思議そうな声が背中にかけられた。
「あ、誰か来るんじゃないかって気にしてる? この時間でも誰もいないし、多分大丈夫」
首を振り、否定する。出入口に近い縁に腰掛けると夜空が一際よく見えた。
今の悠の心は、あの空に雲がかかっているかのようだ。
「……本当は、わかってるんだろ?」
あの時ずっと送っていた視線。それに気づいていないわけがない。
悠は何も答えないまま、隣へとやってきた。
火照った身体を、夜風が撫ぜていく。心を、内側だけを容赦なく冷やしていく。
どうして何も言ってくれない? そんなに……そんなに、言いにくい内容なのか?
「お前が沖奈の大学目指す本当の理由って、何なんだ?」
堪えきれずに吐き出す。悠が苦笑を洩らした気がした。
「本当の理由なんて、ないよ」
「でも、隠してる理由はあるんだろ?」
視線だけを投げると、悠は前髪をくしゃりと掻き乱していた。
「……全く、里中は怖いな。ああやって不意打ちしてくるんだから」
「じゃあ、やっぱり」
身体ごと向き直る。どんな理由にせよ、隠しごとをされていた事実には変わりない。
胸が抉られるようだ。
「少なくとも、俺にとっては大した理由じゃないんだ」
予想外の言葉が、飛んできた。
「いや、今のはちょっと言い方悪かったかも。なんていうか当然のこと、みたいな感じなんだ」
どういうことだ。真意が、全く読めない。
観念したように溜め息を漏らした悠は視線を持ち上げ、口を開いた。
「――陽介は、小西先輩に誓っただろ? ここで、生きてくって」
何を、と言いかけてつぐむ。
「なら、俺にとってもそうだってだけ」
去年の夏の記憶が、巻き戻る。
互いを、誰よりも頼りになる自慢の男だと言えるような間柄になりたい。まさに「相棒」の名に相応しい関係でいたい。
そのために「情けない花村陽介」を吹き飛ばして欲しいと、その姿を今まで晒し続けてきた男だからこそ――殴って欲しいと懇願し、最終的には殴り合いで終わったあの時。
単純に好きなだけではなかった。憧れも、尊敬も、様々な想いがあった。
そんな小西先輩の分まで、この町で生きていくと決めた。彼女が生きられなかった日々を生きるに相応しいのは、稲羽以外考えられないと思った。
『ああ。俺も生きるよ。生きて――必ず、この事件を解決しよう』
強い決意を携えていた瞳がやけに印象に残っていたのだが……この瞬間から、だったのか?
満足そうに悠は笑っている。嘘をついているつもりも、冗談を言っているつもりもないとわかる。
「お、まえ……バカ、じゃねえの……」
表に溢れようとする涙を懸命に堪えようとして、咄嗟に浮かんだ言葉を口にしてしまう。
「馬鹿じゃないよ。教師の夢も叶えられるし、むしろ言うことなし」
「そうかも、知れないけど……でも、俺のため、とか……」
「お前のためだけじゃないよ? ここは俺のもう一つの故郷だし、本当にここで教師をやりたいって思った。何もおかしなことじゃないだろ?」
「それ、でも……!」
悠は全く引かない。紛れもない本心からの願望なのだとわかって、心は間違いなく歓喜に震えている。だが、教師の夢があっても簡単に決めてしまっていいのかと問う声もまた存在していた。
いい加減呆れられてしまうだろうか。どうして素直にありがとうと、嬉しいと言えないのかと怒られてしまうだろうか。
ふと、顎を掬われた。目元に軽く口付けてまっすぐに自分を見つめてくる。
あの時と同じ輝きが、双眸の中にある。
「陽介の願いは、俺の願いだ」
輝きが、一層増した。
「お前とこういう関係になってから、ずっと一緒に生きるって決めたんだ。だから何も後悔はないし、これからも絶対、ない」
――何よりも欲しかった言葉が、一気に流れ込んできた。
悠が自分の想いを受け入れてくれた時以上に胸が苦しくて、全身が熱くて……最高以外の表現が見つからない、告白だ。
瞳から零れそうになる涙を見られたくなくて、咄嗟に湯船の中へと逃げてしまう。意味がないのは承知だがあの場に留まるのは限界だった。泣き顔を晒してばかりでとにかく格好悪い。恥ずかしい。
「突然逃げ出すからびっくりしたじゃないか」
「い、いいから追いかけて来んなよ。ちょっと、あっちで待ってて」
駄目、と囁きが耳元へ注がれる。そのまま抱きすくめられてしまった。
「聞いておきたいんだよ。陽介も……俺と同じ気持ちでいるかどうか。自惚れてもいいのかどうか」
腕の力がさらに強くなる。涙は止まるどころか、さらに溢れ出る。
聞くまでもない。答えなんてもう、とっくに決まっている。
「……んなの、そんなの当たり前だろ!? 俺だってお前と生きていきたい、ずっと一緒に……!」
必死に答えを紡ぐ自分の肩口に悠が顔を埋めて、小さくお礼の言葉を呟いた。
「く、そっ……俺、またこんなカッコ悪ぃトコ……」
「俺だって同じだよ。陽介からずっと、聞いておきたかったこと聞けたから。俺、今絶対だらしない顔してる」
だったら証拠を、と要求したが即行で断られてしまった。
――背中から伝わる細かい震えと、肩に少しだけ湿った感触を覚えたのは仕方ない、内緒にしておこう。
