恋人だから - 3/3

 少し、楽になってきただろうか。
 寝台から身体を起こし、すっかり橙に染まった空をぼんやり見上げる。まだ全身をだるさが包んでいるものの、日中に比べれば大したことはない。
 明日復帰できるかどうかは夜に来訪する医師の判断次第だが、問題ないのではないだろうか。
「とりあえず今日は何もなくて安心しました」
 何かあれば即連絡を入れるよう副官にお願いしていた。ずっとそれが気がかりだったのだが、よかった。
 本当に、よかった。
 けれど陸遜の心のもやはまだ、晴れそうにない。力なく寝台に腰を下ろす。
(……呂蒙殿……)
『風邪を引いて休んでいることは絶対に呂蒙殿には伝えないで欲しい』
 そう書簡に綴った命令に対する副官の返答は了解とあったものの、自分達の普段を知っているがゆえにかなり困惑しているようだった。
 もし休んでいると知ったら、呂蒙は必ず自分の元へ訪れる。もしかしたら付きっきりで看病してくれるかも知れない。いつでも彼は自身より他人を優先する性格だから、なおさら。
 だからこそ知らせたくはなかった。彼が今どれだけ多忙であるか熟知しているからこそ、余計な事情は挟みたくなかった。
(こんな時は……本当、不思議なほど甘えたくなってしまいますし、ね)
 呂蒙に迷惑はかけたくない。自ら重荷になるような真似はしたくない。
 心に居座る寂しさをごまかすように立ち上がり、水差しから水を注ぐ。これを飲んだらまたひと眠りしよう。
「――陸遜様! あの、お目覚めでいらっしゃいますか!?」
 扉の前から妙に切迫した声が届く。まさか、副官からの連絡が?
「起きています。何かありましたか?」
「呂蒙様が、いらっしゃいました」
 ――心臓が、ひときわ大きく高鳴る。
「呂蒙、殿が?」
「は、はい。お休みになられているので、とお伝えしたのですがどうしても会わせて欲しいと……っ!?」
 不自然に声が途切れた。反射的に扉を開こうとする。
 今度は、陸遜が言葉を飲み込む番だった。
「りょ、もうどの」
 髪と息を乱した呂蒙が、こちらを見下ろしていた。
 突然のことに頭が働かない。
「すまん。無礼を承知で、勝手に上がらせてもらった。どうしても、お前に会いたかったからな」
 呂蒙の後ろで困惑していた侍女にも一言謝ると、扉を閉めてしまう。思わず少し後ずさると当然のように距離を詰められた。
「どうして……私は、今日はお会いできないと……」
「思っていたか? これくらいの策など、見抜けないでどうする」
 諦めたように顔を持ち上げる。視線の先では心配と怒りがない交ぜになった顔がこちらをまっすぐに見下ろしていた。
「あらかた、俺に余計な心配をかけたくないと思ってわざと知らせないようにしたのだろう?」
「……見抜かれて、いましたか」
「お前とどれだけ一緒にいると思っとるんだ。それぐらいわからんでどうする」
 ――時々見せる、呂蒙の不意打ち。今回もまた、見事に受けてしまった。まだ熱を持っている頬が、さらに熱くなるのを感じる。
「……呂蒙殿がここ最近、とてもお忙しくしていたのは知っています。だから、こんなくだらないことでお時間を割いていただきたくなかったのです」
 だが呂蒙は不快そうに眉根を寄せてきた。
「くだらなくなど、ないだろう」
「くだらないです。だって、単なる風邪ですよ?」
「その単なる、が大ごとになる可能性もあるといつも言っているのは誰だ?」
「っ、呂蒙殿はご自分に甘すぎるんです! 私がいつもどれだけ心配しているか……!」
「その言葉、そのままお前に返すぞ」
 勢いのままに口を開きかけた陸遜は、我に返る。これではまるで、売り言葉に買い言葉状態だ。
「……すみません。無駄に意地を張ってしまいました」
 呂蒙も短く息を飲んで、軽く頭を下げてくる。
「いや、俺もすまなかった。お前はまだ具合が悪い身なのに……。全く、今日は軍師らしからぬ行動ばかりでどうしようもないな。俺もまだまだ修行が足りん」
 私もです、と苦笑する陸遜の頭を、呂蒙が優しく撫でる。
「だがな、陸遜。俺は本当にお前が心配だったんだ。ただ一目でもいいから、お前の姿をきちんと見ておきたかったんだ」
 そんな呂蒙の姿と、普段の自分が重なって映る。
 ほぼ毎日呂蒙の元を訪れていたのは……まさに、呂蒙と同じ気持ちだったから。
 自身を無駄に追い込んでしまう呂蒙がただ心配だった。しきりに「大丈夫だ」と口にしていたとしても、呂蒙の性格を熟知している自分は足を運ぶ行為を止めることはできなかった。
(私が逆の立場だったら、呂蒙殿と同じ行動を取ったはずなのに……)
 少し考えればわかることなのに、どうして頭が働かなかったのか。
「……はい。申し訳ありませんでした」
 いろいろな意味を込めた謝罪の言葉を呟く。
「い、いや。謝らんでくれ。ほら、俺も強引な手を使ってしまったしな。……そういえば起きていて平気なのか?」
「だいぶ身体のだるさは取れたと思います。夜に医師を呼んでおりますので、そこで問題なければ明日には復帰できるかと」
「そうか。俺としては明日も休んでもらいたいところだが……くれぐれも無理だけはするなよ?」
「はい。……ふふ、何だかいつもと立場が逆ですね」
「そういえば、そうだな」
 気づけば、胸にあったもやはすっかり晴れていた。代わりに、せき止めていた欲が溢れ出すのを止められない。
 呂蒙にずっと傍にいて欲しい。ずっと抱きしめていて欲しい。
 わがままとわかっているのに、止められない。
「……呂蒙殿」
 医者の来訪と陸遜を気遣って帰ろうとした呂蒙を呼び止める。こちらを振り返ろうとした広い背中を、両腕いっぱいに包み込んだ。
「り、陸遜?」
「少しの間だけ、こうしていてもいいですか?」
 けれどこれ以上呂蒙に迷惑はかけたくないから、こうして抱きしめるだけに留めておく。少しでもぬくもりを感じたくて、自然と力が加わる。
「全く、お前は……」
 短い溜め息が聞こえた。抱擁を解いた呂蒙が、こちらに手を伸ばす。
 包み込まれた。
 嬉しい、けれどどうして急にこんな行動を取ったのかがわからなくて戸惑ってしまう。まるで心の中を読んだ上で、のような……。
「……もしかしてまた、見抜かれてしまいましたか?」
「まだ、修行が足りないな」
「……本当ですね」
「冗談だ。俺も、こんな時ぐらいは役に立ちたいからな。……お前の、恋人として」
「なら、もうひとつ……お願いしても、いいですか?」
 顔を持ち上げ、薄い赤に染まっている頬に手を伸ばす。意図を察したのかわずかに視線が逸らされたものの、明らかな抵抗はない。
「風邪、うつるかも知れませんね」
「本当にうつったら、どうするんだ?」
「そうしたら、私が責任を持って看病させていただきます」
「……ふっ。調子のいい……」

 数日後、屋敷で療養しているらしい呂蒙の元を訪れる陸遜の姿が目撃されたとか、されなかったとか。

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